転ぶ権利をどう肯定するか
転ぶ権利をどう肯定するか

 「われわれは、動くということがなにを意味するかさえもはや理解できないのである」(ジル・ドゥルーズ『ニーチェ』より)。



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 歩行がおぼつかなく、転ぶかもしれないSさんが椅子から立ち上がろうとしました。

 それに気づいたAさんが遠くから「あっ!Sさん!」と大きな声を出します。

 Sさんはビクッとして立ち上がるのをやめるかもしれませんし、Aさんの声に反応したBさんがSさんに「Sさん、危ないから座っていてください」と「声かけ」をするかもしれません。



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 これは、デイサービスでも特養でも、あるいは介護とは全く関係のない日常生活でもよくある場面です。

 Sさんはお年寄りでもあり子どもでもあり、どうしようもなくだらしない大人=私たち自身でもあります。

 そしてAさんやBさんのような「善意」は私たちの周りに満ちあふれています。



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 私は以前の職場で「身体拘束廃止委員会」に入っていたこともあり、高齢者介護における身体拘束の問題についてずっと関心を持ってきました。

 つい最近、それとは別に「行動制限(の最小化)」という言葉を知り(不勉強ですみません)、新しい視点を得られるかもしれないと直感しました。

 「転ぶ権利」をキーワードに、身体拘束や行動制限について自分なりに考えたことをポツポツ書いていこうと思います。


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なお、ここでいう「転ぶ」ことというのは文字通り「転ぶこと」でもあり、より広く、「何かを試してみて結果的にうまくいかないこと(失敗すること)」をも意味します。

 「人権(の尊重)」という言葉で大雑把に括られているイメージをもう少し具体的に考えるためのヒントがここにあるのではないでしょうか。





 今回の文章は美穂の家沓谷、田邉が書きました。

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